※満州開拓、旧満州等に関する情報、知識等を逐次流していきます。皆様からもお寄せいただければ幸いです。
※ここではあくまで基本的なことについて述べさせて頂いています。
まずは、一般には余り知られていない「満州」や「満蒙開拓」等についての基本的なことを知って頂くことを主眼としていますので、学術的、専門的な視点からはもの足らないと思いますが、前記趣旨からのことですので簡易化、表現省略等はご容赦ください。
※ここでも「旧満州」、「満州」等の用語を使用していますが、これらを美化・賛美しよう等の意図ではなく、歴史を正しくそのままに伝えようという意図によるものです。
NO.5 「満蒙開拓と阿智村」(2009年4月17日掲載)
◆記念館が建設される阿智村と満蒙開拓との関わりとは?
今回、記念館建設に向けて用地貸借契約のなされた下伊那郡阿智村は満蒙開拓、戦後の残留孤児支援、そして戦後の日中友好活動の再出発等に大きく関わってきた村です。以下は過日、阿智村駒場区にて開催された駒場区内での会合の際に配布された資料をベースに少し書き加えたものです。
なお、阿智村は今年4月1日に旧清内路村と合併しました。この旧清内路村も下伊那郡内では泰阜村に次ぎ人口比率第2位(当時の村人口の約2割弱)という多くの開拓団を送出した村でした。
[ 満蒙開拓と阿智村 ](2009.4.5)
1.阿智村と満蒙開拓(満州開拓
全国で最も多くの開拓団を送出した長野県の中で、飯田・下伊那地方は更にその約1/4を送出していますが、阿智村(旧浪合村及び旧清内路村を含む)からも下記通りの多くの開拓団が渡満し、多くの犠牲者が出ました。
| [開拓団員] | [昭和10年の村人口] | [人口比] | |
| 旧会地村 | 161人 |
3,250人 |
5.0% |
| 旧伍和村 | 144人 |
2,301人 |
6.3% |
| 旧智里村 | 273人 |
2,602人 |
10.5%(郡下6位) |
| 旧浪合村 | 123人 |
1,499人 |
8.2% |
| 旧清内路村 | 370人 |
1,953人 |
18.9%(郡下2位) |
|
|
(計1,071 人) |
旧阿智村からは北満のソ満国境近く「北哈馬阿智郷開拓団」に約130人が渡るなどしており、その最後の開拓団が渡満したのは敗戦間近の昭和20年になってからのことでした。また、今年4月1日に阿智村に合併した旧清内路村からは村人口の2割近くの370人もの開拓団が渡満しています。
2.戦後の残留孤児支援及び日中友好活動と阿智村
多くの犠牲者を出した満蒙(満州)開拓でしたが、戦後、旧満州現地に多くの日本人残留孤児等が生存していることが判明し、その帰国のために国等に先駆けて支援活動に取り組んだのが長岳寺住職であり阿智郷開拓団の教員として渡満し帰国していた故・山本慈昭翁(阿智村名誉村民)でした。山本翁を中心とした全国的組織「日中友好手をつなぐ会」の熱心な活動は、当初は及び腰であった国等をも動かすこととなり、残留孤児・婦人の救済に取り組まれることとなりました。
また、阿智村は日中友好活動出発の原点でもあります。戦後、日本と中国とは国交断絶状態となり、1972年(昭和47年)の日中国交回復までは、日中間の交流は日中友好協会等の民間交流が主体でした。現在も帰国者支援、満蒙開拓の語り継ぎ等を通じて当地方で活動する飯田日中友好協会(会員約300名)は、昭和38年に「日中友好協会飯伊支部」として前身が発足していますが、その発足時の初代会長は元阿智村村長であった小笠原正賢氏(長野県開拓自興会会長等も歴任)であり、初代事務局長は山本慈昭氏でした。同飯伊支部はその最初の事業として、天竜村平岡ダムの工事現場で犠牲となった中国人強制労働殉難者の遺骨を収集、その慰霊碑を平岡ダム横に建立すること等から始めています。
このように、阿智村は日中友好協会活動の出発時にも大きく関わり、また残留孤児支援活動、平和発信、日中友好活動の先駆けの村としても知られています。
(資料作成・文責) 満蒙開拓平和記念館 事務局長 寺沢 秀文
(以下、前回までの掲載分です)
NO.1「満州」とは(2009年2月7日掲載)
◆そもそも「満州」って何、どこにあったの?
一般に言われる「満州」とは、第二次世界大戦の戦前・中、現在の中国の東北地方に存在した「満州国」のことを指します。
この満州国は独立国家としての体裁を持っていましたが、日本、特に「関東軍」と呼ばれる日本陸軍軍部等により支配された、実質的には植民地的色彩の濃い傀儡国家(「傀儡(かいらい)」とはあやつり人形のこと)でした。
1932年(昭和7年)3月1日に建国され、国家元首(当初は執政、後に皇帝)は清国の最後の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀(映画「ラストエンペラー」で知られる)でした。
この「満州国」は現在の中国の東北3省(黒竜江省、吉林省、遼寧省)の他、現在の内モンゴル自治区の一部、河北省の一部なども含まれていました。
(文責:準備会事務局・寺沢秀文)
NO.2「満蒙開拓(満州開拓)とは」(2009年2月7日掲載)
◆「満蒙開拓(満州開拓)」って何?
昭和初期、日本は現在の中国東北地方に建国された「満州国」に20年間で500万人の日本人を移住させるという「満州開拓移民推進計画」を打ち立て、これに基づいて満州の地に全国から開拓団が送り込まれました。最も多かったのが長野県で、全国の約14%を占め、2位の山形県の約2.6倍相当の多さでした。
なお、長野県からの実際の送出数は32,992人とされている(長野県開拓自興会「長野県満州開拓史」より)。
1位 長野県 約 37、800 人
2位 山形県 約 17、200 人
3位 熊本県 約 12、700 人
4位 福島県 約 12、700 人
5位 新潟県 約 12、700 人
(文責:準備会事務局・寺沢秀文)
NO.3「五族協和」(2009年2月7日掲載)
◆旧満州国のスローガンとされていた「五族協和」の五族とは?
1932年(昭和7年)に建国された「満州国」はその建国スローガンの一つがこの「五族協和」でした。この「五族」とは、「日本民族、漢族、満州族、朝鮮族、蒙古族」の五族を指していました。この五族が協力しあって理想の新国家を作り上げようというものでした。しかしながら、残念なことに、その理想に反して実際には日本人は一等国民、その他の民族は二等・三等国民として、教育、就職、給与など多くで日本人を優遇し他民族を蔑視する差別があるなど、現実は理想とはほど遠いものでした。
(文責:準備会事務局・寺沢秀文)
NO.4「満蒙開拓と伊那谷」(2009年2月7日掲載)
◆全国で最も多くの開拓団を送出した長野県南部の「伊那谷」。
当時、全国から約27万人が満州に渡満しましたが、そのうち最も多かったのが長野県、さらに長野県で最も多かったのが飯田・下伊那地方でした。この飯田・下伊那地方、さらにその北側の上伊那地方、これを含めて「伊那谷」とも通称されます。この伊那谷からの満蒙開拓の送出等について簡単にまとめた文章を当HPの「満蒙開拓資料コーナー」に掲載します。(2005年発行の「満蒙開拓と伊那谷(慰霊碑は語る)」に掲載されたものです)。参考として頂ければ幸いです。
(文責:準備会事務局・寺沢秀文)
