※以下の記事は長野県南部にて発行されている日刊紙「南信州」紙に掲載されたものをそのまま転記したものです。当記念館事業についての趣旨等の概略をお知り頂くために、ここに掲載させて頂きます。
全国唯一の「満蒙開拓平和記念館」実現を目指して
(「南信州」・平成19年8月21日付掲載)
現在、この飯田・下伊那の地に満蒙開拓に特化した「満蒙開拓平和記念館」を建設しようという運動が進められている。日中双方、また蒙、朝、露等も含めて多くの犠牲者を出した旧満州、そして多くの開拓団員が人生を賭し、多くの犠牲者を生んだ満蒙開拓。この旧満州、満蒙開拓に特化した記念館、資料館等の類は、実はまだ全国どこにも建てられていない。類似する関連施設としては、満蒙開拓青少年義勇軍を記念する茨城県水戸市内原の「内原青少年義勇隊資料館」、またシベリア抑留からの引き揚げ等を記念する京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」がある程度である。
当時の時代背景の中で、日本が傀儡(かいらい=あやつり人形)国家として作り上げ、そこに国策として全国各地から満蒙開拓団を送り込み、多くの犠牲者を生んだ満州国、そして満蒙開拓。二度とあのような悲惨な体験を繰り返してはいけないという決意のもとに、平和の尊さを次世代に語り継いでいくためにも、あの満州体験、満蒙開拓体験を語り継いでいかなくてはならないはずのものであり、そしてその拠点としての資料館、記念館等の設置の必要性は極めて高いはずのものである。
にも拘わらず、これまでこのような資料館等が建設されなかったのは、一つには費用的問題、また他方には満州、満蒙開拓といった歴史背景等があったものと考えられる。費用的問題としては建設費の問題、また仮に建設なったとしてもその後の維持管理の問題も大きい。国策として送り出され、地方自治体、教育界等も強力に後押した満蒙開拓であり、一つぐらいは国立、または県立でこのような類の記念館が建てられても然るべきものとは思うも、現実にはこれまでも建てられていない。また行財政の困窮している現況の中では、箱物(公共施設)等としての施設建築等は極めて無理な現状にもあることもまた事実である。
そして、もう一つ、この満州体験、開拓体験については官民含め積極的に触れることを避けてきたという側面も否定できない。一応は独立国の体裁を保っていたとは言え、満州国は実質的には日本及び日本軍(関東軍)が実質支配する傀儡国家であり、植民地的色彩が濃く、結果として侵略の一環であったということは歴史上否定し得ない事実である。勿論、国策や謳い文句に踊らされ渡満した開拓団員たちもまた犠牲者であったことは間違いない。彼らはそこに人生を賭け、全力を傾け、そして多くの同胞がそこで犠牲となった。しかし、残念ながら、意図せず日本の侵略に加担していたという側面も持っていたことは否定できない。多大な犠牲者を出した中国側人民の多くにとっても、開拓団はやはり侵略者の一味でしかなかったであろう。如何に「五族協和」等を掲げ満州の地に理想国家を作ろうという意図もまたあったであろうも、その一方で、当初時期の開拓団の多くがそうであったように、「荒野を開墾しての開拓を」と渡満してみると、そこには既に農地も家もあったという現実、そこを強制的に立ち退かされた人々は日本人の小作人等とならざるを得なかった等の現実は、現地の人々(中国人民)にとってはやはりそれは侵略でしかなかったであろう。
今回、建設実現を目指す「満蒙開拓平和記念館」は旧満州、そして満蒙開拓という史実があったことを客観的に、公平な視点から記録し、語り継いでいくことを骨子としている。満蒙開拓等を徒(いたずら)に美化することも、歴史を歪めることもしないし、また逆にそれを卑下し、自虐的に陥ることも無い。満蒙開拓が侵略の加担でもあったという史実はきちんと把握しながらも、同時に、この満蒙開拓に人生を賭した多くの同胞がいたこと、懸命に生きた人々がいたこと、そして満蒙開拓を推進した歴史的背景があったこと等をそのままに語り継ぐことを目指している。
「幻の国・満州」と言われる満州ではあるも、私たちは満州、そして満蒙開拓を本当の意味での幻にしてはいけないはずである。多くの犠牲者を出したこの満州体験から、平和の尊さを学び、次世代に引き継いでいくことで、あの満州体験は幻ではなく厳然と歴史の中で生き続けることになる。それが多くの犠牲者に対する鎮魂であると同時に、戦争、満州体験といった「負の体験」を平和希求、国際交流といった「正の遺産」へと転換していくことであり、またそれを成し遂げる英知が、全国で最も多くの開拓団を送り出したこの飯田・下伊那を継承する我々に問われている。
そして、そのアジア、世界からの「日本は満州体験から何を学んだの?」という問いかけは、この飯田・下伊那だけにではなく、全国で最も多くの満蒙開拓を送り出した長野県民に、そして日本国民全体に向けられているものであることを私たちは忘れてはならない。広島、長崎が悲惨ないたましい原爆体験の中から、世界に向けての平和の発信地となっているのと同じく、私たちもまた全国で最も多くの満蒙開拓団を送出したという「負の体験」を語り継ぐことにより、この地から全国、アジア、そして世界に向けて平和の尊さを発信する拠点として「正の遺産」へと転換していく、その英知が私たちに問われていることを肝に銘じていきたい。
この記念館の実現までには、まだまだ多くの解決すべき課題がある。一番はやはり資金的問題である。最終的には国、県、市町村等の助成も何とか頂きたいと思うも、まずは民間の中で骨格を作り上げ、「民間でそこまでやっているならば」という行政等からの支援を期したい。現在、事業準備会には行政側からもオブザーバーとして御参加頂いているも、残念ながらまだ積極的に後押しするというところまでには至っていない。その理由としては、まだ全国どこにも建設例の無い記念館に対する取り組みであるということ、国、県、市町村いずれも行財政が厳しい状況にあること、さらには建設なったとしてもその後の維持管理に対する懸念、等々から行政側においてもまだ積極的な関与は困難とのお立場にある。
とは言え、前記通りの歴史的意義の深いこの記念館事業について、その実現のための英知が問われているのは、官民いずれに対してもであり、また国、県、市町村いずれに対してでもある。今後の民間における取り組みの進捗等を受けて、国、県、そして地元市町村がどのようにこの重要テーマに取り組もうとされるのか、その英断を多くの地域住民が注目し見守っているところである。
そして、行政等の前向きな英断を頂くためにも、まずは当地域を始めとする多くの皆さんからの資金的な協力を是非ともお願い申し上げたいところである。同時にこの構想に対する御意見、提案等もお寄せ頂きたい。また、資料館内容の充実に向けて満州開拓、旧満州に係わる諸資料等の収集も継続して行っていきたいので、この点についての御協力等も是非ともお願いしたいと思う。
また、この記念館事業を共に推進しサポートして頂けるボランティアの募集も行っている。この事業には戦後世代、特に若い皆さんの積極的な参加も期待している。そしてこの記念館を、現在も活動中の「満蒙開拓・語り部の会」の常設会場とすると共に、この語り部の次世代の養成講座の場ともしていきたい。去る7月8日開催の飯田日中友好協会の定期大会には、遠く舞鶴市から「舞鶴引揚記念館」の山田館長、そこで語り部をされている「語りの会」の豊田理事長ら計5名の皆さんをお招きし、体験談等の発表を頂いた。舞鶴でも、戦後世代を中心とした若い皆さん等も含む「語り部」の養成講座を設けている。今、戦後60年以上を経る中で、戦争や満蒙開拓を知らない世代による語り継ぎの時代に入っている。幸いにもまだ満蒙開拓等体験者が御健在な今のうちにこそ、この語り部の後継者の養成を図りたい。これらをも見据えて、若い方、戦後世代の皆さん等のこの事業への参加、協力を是非とも期待するところ大である。
「満蒙開拓平和記念館」事業準備会 事務局長 寺沢秀文
